元電通マンに聞く! 広告・ ブランディング 界の『現代の病』
Date:2022.06.15
Category: インタビュー
元電通マンに聞く! 広告・ ブランディング 界の『現代の病』
2019年、インターネット広告費がテレビ広告費を上回りました。デジタルメディアがリードしていく時代に、広告 ブランディング はどうあるべきなのでしょうか。この答えのない問いを、tetote代表のミウラが長年お世話になった広告界の大先輩に投げかけました。広告の価値が高く評価され、広告が社会に多大な影響を及ぼしていた時代に「広告に生きた」人が出した答えとは?
吉田 望(よしだ・のぞむ)
株式会社takibi founder
1956(昭和31)年東京生まれ。東京大学工学部卒、慶應義塾大学大学院経営学修士。1980年電通入社、2000年に退社後、ノゾムドットネットを設立。スカイマークエアラインズほか数社の役員。著書に『ブランド』(宣伝会議)、『会社は誰のものか』(新潮社)など。
tetote代表 ミウラユウジ
1984(昭和59)年 神奈川育ち。印刷メーカーにて4年、吉田望が創業した広告ブランディング会社takibiに10年在籍。2021年に株式会社tetoteを設立。企業ノベルティの改革、KPIを超えるギフトの可能性を発信する修行中。
うらやましい!? 広告全盛期の世界
ミウラ:よろしくお願いします、吉田さんは前職の時・・・10年弱ですね、非常にお世話になりました。
吉田さん:よろしく。僕はそんな大層な者じゃないんで、話半分に聞いてね(笑)
ミウラ:強引に引っ張り出してしまってすみません(笑)ノベルティの会社を起業して、「広告としてのノベルティ」は考えたいテーマなんです。原点に立ち返る意味でも、かつて一世を風靡した広告業界の「今昔物語」を吉田さんにお聞きしてみようと。
吉田さん(以下、敬称略):確かに、君が広告の仕事を始めたのは、2010年代だからね。僕が電通に入社したのが1980年だけど、あの頃は広告の全盛期と言えるかもしれない。
吉田:まず街もすごかったよ。六本木通りにタクシー待ち。1000人くらい並んでるんだよ!タクシーは若い人、女性を逃げるように避けていく。客がお金持ってる“おじさん”でないと止まらないんだよね。
ミウラ:すごいなあ。
吉田:僕は電通には20年くらいいて上場前までだった。上場後は違うのかもしれないけど。「電通のロゴが入った袋」を持ってたらモテる、とか都市伝説もあった(笑)もちろん右肩上がりの時代でよかったけど、広告が芸術的な表現として先端にあったことがありがたいよね。
ミウラ:広告名鑑みたいなもので、よく当時のクリエイティブはみました。かつての「広告の仕事」は芸術的な表現に近いのは伝わります。
吉田:典型的なのは、「ポップアート」の創設者であるアンディーウォーホル。彼は、大量消費するものはアート的な価値があると言ったでしょう。ポップというのは、広告に非常に近い。20世紀の産業社会の中で、広告は社会に影響を与えられるし、アートの価値も伝えられたんだよね。
ミウラ:広告の影響力の大きさは、今とは比べ物になりませんね。
吉田:今思うと少し傲慢かもしれないけどね(笑)本気で社会に影響を及ぼすものであると思っていたし、実際にそうだった。時代が変わって、今はそれが成り立たなくなった。
ミウラ:『広告批評』という月刊誌がありましたよね。少し前までは、「 広告 」が映画やドラマのように批評されていた。これは、広告が社会とつながっている、社会に影響を与えているという証拠ですよね。2009年に休刊したことも、広告が時代と共に変化したことを裏付けていますね。
吉田:そうだね、批評の対象ではなくなったと同時に、広告自体のメッセージ性や、表現のインパクトという側面で議論されることがほとんど無くなったね。広告は、より「販促」に近いものになってきていると思う。知ってる?電通は元は生コマから始まったんだよ
ミウラ:確かに、より販促に近くなった、というのは体感しますね。生コマ…?生コマーシャルですか?
吉田:そうそう。番組中にタレントが自分が演じたり、あるいは紙芝居や⼈形を使って、商品の紹介をしたんだ。テレビ初期はそもそもCM挿入とかができないから、その場でCMをしたということだね。だから電通が得意なクリエイティブは「プランナー的」というか。
ミウラ:なるほど、面白いなあ。ではライバルの博報堂はどうですか?
吉田:テレビより雑誌出身、基本的にデザイナー的視点だから美しくて静的なものになってた印象がある。例えば「伊右衛門」とか。美しい1シーンが切り取られて、各メディアでの連動性が綺麗に出る。 電通の流れは印刷とテレビが連動しない一方で、爆発的なアイデアを指向したのかもね。
吉田:振り返ってみると、戦後広告の黎明期、印刷に写真が登場して、まずカメラマンがディレクションを行った。次に70年代、雑誌などビジュアルが重要になってデザイナーの時代に。次は糸井重里さんみたいな心を打つコピーライター。そこから「読む」から「見る」テレビに移っていく。その中で80年代はプランナーの時代になっていくんだよね。生コマのような会話劇の系譜で、佐藤雅彦、佐々木和宏、岡康道なんかが活躍した。
ミウラ:メディアが変わっていくにつれて、登場するクリエイターの得意分野も変わっていくのが面白い…今このweb全盛時代ってどうなんですかね!?
吉田:いまはストラテジーとかキーワードだよね。最後にwebに誘導してコンバージョンできることが求められている。もちろんクリエイターもたくさんいるけど、どちらかと言うと得意先に入ってコントロールするマーケターが注目されてない?
ミウラ:確かに。元P&Gの方を筆頭にマーケ系の方が目立つ潮流があります。独立して支援会社や事務所を立ち上げるよりも、事業会社の中で活躍するイメージかも。
吉田:うん、大きな流れはそうかもね。当時はマスが強かったので宣伝部が予算をつくりそこには代理店がセットになった。web中心 に変わると様々な部署が独自にダイレクトマーケティングを指向するようになったから、社内でコントロールすることが求められているんだろうね
広告全盛期を生きた天才クリエイター岡康道
ミウラ:ざっくりですが、広告業界の大まかな流れに発見がありました。先ほども出てきた岡康道さんのお話をお聞きしたいのですが、2020年に亡くなったクリエイティブディレクターである岡康道さんと吉田さんは電通の同期なんですね。
吉田:そう。新入社員で合宿があるんだけど研修の班が同じだった。クリエイティブのグループワーク試験があるんだけど僕たちの班がダントツで優勝したんだ。その後お互い営業に配属されたんだけどうまくいかなくてね…自分の意見のあるやつは営業に向かない、って当時先輩から言われたよ(笑)
ミウラ:ああ、それ何となくわかりますね(笑)我が強いと。
吉田:僕の作ったtakibiのメンバーなんて、君もそうだけどみんなそんな感じじゃない(笑)自分と会社が分離してるんだよね。同じものを売ってる感覚がなくて、自分が商品。そういう人種に当時の営業は向いてなかったんだろうね(笑)
ミウラ:岡さんは先に電通を辞めてTUGBOATという会社を作り独立しました。吉田さんもその後を追うように独立されたんですかね?
吉田:だんだん部下を育てたりするポジションに2人ともなってきて。マネージメントなんて営業の時みたいに向いてないかもってお互い話してた(笑)そしたら先に辞めた岡が「お前もやめたほうがいいよ。吉田望だろ。名前が五郎なら勧めないけど。ノゾムなんだからさ、希望がありそうだろ?」って後押ししてくれた。
ミウラ:いい話!
吉田:それからも最初は一緒に仕事をしてくれたり、僕が無謀なチャレンジをしたら止めてくれたりね(笑)良い友人だったよ。